旧海軍司令部壕(沖縄戦の遺構)

旧海軍司令部壕の通路

那覇空港の近くの岡の上に旧海軍司令部の壕が残されている。壕のある場所は岡になっており、公園の展望台からは那覇市内などが見下ろせる。

旧海軍司令部壕の地図


大田実少将の県民に特別な配慮を願った電文

壕とは別に資料室があり、沖縄戦の歴史と多少の遺品が展示されている。 最後の司令官であった大田實少将が拳銃自殺を遂げる前に海軍次官あての沖縄県民の献身的な作戦協力の様子と県民に対する特別な配慮を願った電文などが展示されている。

旧海軍司令部壕の資料室
旧海軍司令部壕の資料室

海軍司令部壕内から発信された大田実少将の有名な電報。特に最後の『…沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』が有名。

海軍次官宛の電報原文の一部(ウィキペディアより転載)

発 沖縄根拠地隊司令官宛 海軍次官左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ(途中省略)沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ(文中の□部分は不明 )

 電報の現代語訳(ウィキペディアより転載)

沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛のための召集に進んで応募した。残された老人・子供・女性は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女性は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要させられたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。沖縄県民はこのように立派に戦い抜いた。県民に対し、後世、特別のご配慮をしていただくことを願う。

旧海軍司令部壕内

壕の入り口は岡の頂上にあり、壕に行くには爆撃から安全を守るためであろうか100段ほどの階段を降りることになる。なお、出口は岡の中腹にあり、階段を上らなくても帰れる。

旧海軍司令部壕への長い階段
旧海軍司令部壕への長い階段

壕に中はいくつかの部屋とそれをつなぐ坑道で結ばれている。坑道の長さは全長は約450m。 内、300mが現在公開されている。砲撃に耐えられるよう重要な部屋はコンクリートや漆喰で補強されている。
坑道の壁には建設時につるはしで削っていった跡なども残されている。

旧海軍司令部壕の通路
旧海軍司令部壕の通路

司令官室。その他、信号室、幕僚室、暗号室、下士官兵員室などが公開されている。

旧海軍司令部壕の司令官室
旧海軍司令部壕の司令官室

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です